【スーパーカーにまつわる不思議を考える】お互いを高めあって歴史を作ったフェラーリとピニンファリーナ(後編)
2023/11/22
スーパーカーという特殊なカテゴリーはビジネスモデルとして非常に面白く、それ故に車好きを喜ばせるエピソードが生まれやすい。しかし、あまりにも価格がスーパーなため、多くの人はそのビジネスのほんの一端しか知ることができない。スーパーカーブランドの代表格であるフェラーリは、長きにわたりピニンファリーナと強固な関係を作って、ともに発展してきた。今回はその歴史、後編をお届けしたい。
順風満帆だったピニンファリーナのビジネス
エンツォ・フェラーリはフェラーリのロードカーを上手く売った。彼の卓越したマーケティング戦略により希少性をアピールし、顧客の飢餓感をあおったから、フェラーリは世界の富裕顧客にとって憧れのブランドとなった。そして、彼の「ツンデレ戦略」も大いに寄与した。著名な顧客がマラネッロを訪ねてきても、あえて何時間も待たせたり、売買契約が結ばれているのも関わらず、平気で「あの客の方が好きだから」とキャンセルしてしまったり……。当時の顧客たちはそんなエンツォの戦略にハマり、フェラーリに首ったけとなっていった。
もちろん、そんな戦略だけでフェラーリが人気となったワケではない。北米顧客のテイストを研究し尽くしたピニンファリーナの魅力的なスタイリングも大きなファクターとなったのだ。
強いドルの力もあって、北米の自動車市場は1950年代に爆発的な広がりを見せた。だからヨーロッパの自動車メーカーもこぞってこのマーケットをターゲットにした。幸いなことにフェラーリにはルイジ・キネッティという北米における窓口が存在した。彼は北米富裕層の嗜好をよく理解していたから、エンツォ・フェラーリは彼の意見を上手くロードカー作りに取り入れた。一方、ピニンファリーナは創始者バティスタの「シンプルに作れ」という徹底した哲学の下、才能溢れた多くのデザイナーを取り込み、ピニンファリーナ独特といえるスタイリングのDNAを作り上げた。
余計なディテールを配した豊かな曲線的ボディが一つのアイデンティティとなり、それは北米顧客の好みとも合致した。ピニンファリーナは北米のトレンドでもあった流線型フィンなどのテイストも取り入れたが、それはあくまでも一つのディテールであり、確固たるスタイリングのDNAにこだわった。カロッツェリアとしてかなりの規模の生産設備を持っていたことも、フェラーリとのコラボレーションに対してプラスに働いたのだ。
1960年代には自動車産業の変化、そして熟練工の不足から、多くのカロッツェリアが経営難に陥った。トゥーリング、アレマーノをはじめとして多くのカロッツェリアが倒産の憂き目にあう。そんな中でキング・オブ・カロッツェリアと呼ばれたピニンファリーナは積極的なクライアント獲得の努力もあり、当時の経営状況はきわめて良好であった。フェラーリなどのクライアントの販売台数の増大に対応すべく、設備投資も怠ることはなかった。
一方、1967年にフェラーリは量産を目的にサブ・ブランドであるディーノ・シリーズをラインナップし、206GT、246GTの生産を開始した。この歴史的名車はレオナルド・フィオラヴァンティとアルド・ブロヴァローネという黄金ペアによってデザインされ、ピニンファリーナのバッジが付けられたものの、そのボディ製造はスカリエッティが行った。
スカリエッティは、モデナに位置するコンペティションマシンのボディ製造をメインとするカロッツェリアであったが、フェラーリと深い関係にあり、ロッセリーニで有名な1954年に登場した375 MMクーペなどのロードカーのリボディなども手がけるようになっていた。
そこでフェラーリは、このスカリエッティを主たるボディ製造拠点とし量産化を推し進めようと考えたのであった。246GTに続く308GTBなど、これ以降の8気筒モデルはピニンファリーナのバッジが付くものの、製造はすべてスカリエッティにて行われた。ちなみにスカリエッティ社は、1977年にフェラーリが完全吸収している。
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フェラーリ 550マラネロ × 全国徐々に変化していくフェラーリとピニンファリーナの関係
面白くないのはピニンファリーナだ。スタイリング開発や設計コンサルタントだけで得られる売り上げはたかがしれている。やはり製造を請け負ってこそ充分な利益が確保できるのだ。せっかく生産設備を増強したにも関わらず、これでは得られるものはきわめて少ない。テスタロッサまでは12気筒系の製造をピニンファリーナが受け持ったものの、456GT以降はフェラーリの親会社であるフィアットの関連ボディサプライヤーとピニンファリーナとの共同作業にて製造が行われ、ピニンファリーナの請け負う製造工程はどんどん少なくなっていた。そして1999年以降、ついに量産モデルがピニンファリーナで生産されることはなくなってしまった。
さらには、モンテゼーモロによるマネージメント時代にはスタイリング開発ですら、彼の懇意にしていたジウジアーロ率いるイタルデザインとのコンペをうたった。このようにピニンファリーナとの蜜月もほころびが見え始め、両者の軋轢は大きなものとなっていった。
21世紀になると、各自動車メーカーは自前のデザインセンターを持つのが常識となっていた。以前にも増して、空力やエンジンの放熱などエンジニアリングとスタイリング開発が密接にからみ合うようになったからだ。ピニンファリーナの位置するトリノとフェラーリのマラネッロ間の物理的な距離だけでなく、両者の組織的距離も容認できないものとなっているのは明らかであり、前回記事でお伝えしたように2012年のF12ベルリネッタを最後に、フェラーリのデザイン開発はラヴィオ・マンゾーニ率いるフェラーリ・デザインセンターで内製化されることとなった。ここに長きにわたった両者の蜜月期間はオフィシャルに終わりを迎えることになったワケだ。
しかし、2014年には例外的にピニンファリーナのバッジが付けられたフェラーリが発表された。6台限定生産のセルジオである。フェラーリのボードメンバーをも務めたセルジオ・ピニンファリーナ名誉会長の死去への敬意とフェラーリ、ピニンファリーナの協力関係が始まって以来60周年を迎えたことに対するアニバーサリーモデルとして成立したプロジェクトだ。ベースとなるのはピニンファリーナがスタイリングの開発を手がけた最後の8気筒モデルである458イタリアであり、ピニンファリーナから提案されたこのプロジェクトに対して、当時フェラーリのトップであったモンテゼーモロは、セルジオへの敬意から即座にGOを出したというエピソードが残っている。
フェラーリとピニンファリーナ、そして私たちファンにとってもこの60年間に及んだ両者のコラボレーションの意義は大きかったと思わずにはいられない。現在は内製化されているフェラーリのスタイリングであるが、その根底にはピニンファリーナが作り上げた「フェラーリかくあるべし」というスタイリングのDNAが今も受け継がれていることは明らかであるからだ。
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フェラーリ 456GT × 全国自動車ジャーナリスト
越湖信一
年間の大半をイタリアで過ごす自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。