車内恋愛#05「花咲くんは今日もオレンジの車で」前編
2018/08/06
木曜日は、憧れのあの人に会える
恋をすると髪を伸ばしたくなるというのは本当らしい。
私、柚月 塔子が4月から伸ばし始めた髪は、やっと肩が隠れる長さになった。今日は待ちに待った木曜日だ。
終礼が終わるとロッカーからスタンドミラーを取り出し、髪をブラシですく。色付きリップを乗せ、マスカラを塗る私に向かって親友のミキは、「お! 塔子、今日は塾の日か。憧れの王子様に会える日じゃーん」とからかう。
「塾のチューターが完全無欠の王子様って、通うモチベーション上がるねー。大岡ゼミの生徒募集の戦略なんじゃない?」
大岡ゼミのテキストをパラパラめくりながら、かなちゃんが知ったような口をきく。
「塔子、大岡ゼミに通い続けるためだけに理転しそうな勢いだもんね。はい、柚月さ~ん」
ミキちゃんは担任のモノマネをしながら、先ほど配られた文理志望届をひらひら差し出した。私はそれをひったくり、「私の進路志望は文系でも理系でもなくて、花咲くんのお嫁さん!」と真面目に言うと、2人はハイハイ、と取り合わず、帰り支度を始めた。
私の通う高校は中高一貫の女子校ゆえ、思春期にも関わらず異性と触れ合う機会などほとんどない。
そんな、恋愛にまるで免疫のない私があっさり一目惚れしてしまったのが、通っている医学部合格率が高いと触れ込みの数学塾「大岡ゼミ」のOBであり、現在はそこでチューターとしてバイトをしている花咲律くんだった。
今の私は、花咲くんに会えるこの木曜日のために生きていると言っても過言ではない。
もうすぐ花咲くんと会えると思うと、帰り道のミキとかなちゃんとの会話中も気はそぞろで、駅に着くなりあいさつもそこそこに反対方面の山手線に滑り込んだ。
ドア付近に立って携帯用の手鏡で再び髪の毛を指で整える。新宿で中央線に乗り換えてからは、いつものように今日花咲くんに質問するべき問題を探すために大岡ゼミのテキストを開いた。
……よし、今日は三角方程式・不等式にしよう。この問題は時間がかかりそうでいいじゃん。
以前、公式を当てはめさえすれば解ける問題を質問して、一瞬で問題解決されたのは失敗だった。何しろ花咲くんは現役で国立大学医学部に合格した秀才なのだ。
少々の問題ならあっさり解決してしまうから、何を質問するかの選定は非常に重要なのだ。
今日の質問の目星がつく頃にはターミナル駅で多くの人が降車して、車内は空く。シートに座り、手帳兼日記を開いた。
花咲くんに会えた日には星マークのシールが貼ってある。毎週木曜、縦に並ぶ星。それが増えていくのを眺めるのが好きだ。
4月5日
今日、運命の人に出会った!!! 今まで生きてきた中で一番かっこいい人。社員証に『花咲律』って書いてあった。名前からして王子様。しかも、『○○大学医学部1年』って頭良すぎ。数学もっとがんばって花咲くんに近付きたい!
4月12日
今日、花咲くんと初めて話した。質問したら、優しく丁寧に教えてくれた。声も澄んでてキレイ! 花咲くんはS高の出身らしい。チューター同士で話しているのが聞こえてきた。メモ。
4月19日
今日も花咲くんと話せた。今日はピンクのTシャツにミサンガみたいなのしてた! 男のピンクなんてキモいと思ってたけど、花咲くんが着ると全然違う。しかも筋肉質。問題を教えてくれるときに浮き出る腕の血管が男らしくて、緊張してシャー芯何度も折ってしまった。恥ずかしい。
4月26日
質問しようとしたら花咲くんが受付にいなかった。ショックすぎて帰ろうとしたら、他のチューターさんが私に気づいて、花咲くんを事務所の奥の部屋からわざわざ呼んできてくれた。私が花咲くん目当てで来てること、チューターの間で評判なのかな。だとすると、花咲くんも気づいてる……!? 恥ずかしい。でも、花咲くんとは塾でしか会えないからこうするしかない。
5月3日
授業は休講だけど、花咲くんいるかもと思って自習室に来てみたら、いた!!! しかも、な・な・なんと花咲くんにジュースもらった!!! 休講で生徒も少ないからゆっくり質問に答えてくれたうえに、自販機で自分が飲み物買うときに、「飲む?」っておごってくれた。幸せすぎて飲めない。このペットボトル、絶対に捨てない。そして、花咲くんは車で通塾しているという新情報ゲット。駐車場まで行って確かめちゃった。これってストーカーかな……。明るいオレンジの大きな車。花咲くん、けっこう派手好き? 調べたらスバルのXVっていう車だった。うちと同じスバル車!! シンパシー! お父さんが、「スバルの車に乗っているのは本物の車好き」って言ってたけど、花咲くんも車が好きなのかな。似合う。
5月10日
今日の花咲くんはなんだかそっけない気がした。質問にだけ淡々と答える感じ。先週、ジュースをもらって少し仲良くなれた気がしたのに。せっかく勉強して今日のテストはできたのにがっかり。
5月17日
今日は最高の気分。勉強も恋もいいことだらけ。
ゼミの受付に貼り出してあるテストの結果を見てたら後ろから花咲くんが来た。会釈したら、私の横に立ち止まって、「名前あった?」って聞いてくれた! 「7位のとこ」って指差したら、「がんばったじゃん」って!!! そして、「『ゆづき』って読むの?」って聞かれたから、ハイって答えたら、「かっこいいな」って。初めて名前呼ばれたー!!! 踊り出したいくらい。いつか、「とうこ」って下の名前で呼んでほしいな。そういえば、花咲くんの車のナンバーは105。「とうこ」じゃん! 運命!?
5月24日
思い出しても心臓が破裂しそう。駅から塾に向かう途中、信号待ちしてるオレンジの車に乗った花咲くんを発見。思わず手を振ったら、花咲くんも気づいて手を振り返してくれて、発車する時軽くクラクション鳴らしてくれた。かっこよすぎる! で、塾について受付に向かおうとしてたら、閉まりかけたエレベーターの扉をガッと掴んで入って来た人がいて。それが花咲くんだったの!!! 映画みたいだった。「セーフ」って言いながら笑ってて。狭い空間で花咲くんと2人きり。すぐ隣に花咲くんが立ってるなんて恥ずかしくて嬉しくてくらくらした。花咲くんの体温がほんわか感じられて、ドキドキしすぎて吐きそう。
パタンと手帳を閉じる。
私を見る向かいの席の小学生のけげんな表情で、自分がにやけていることに気づき、唇の端に力を入れてまっすぐに引き伸ばす。
少しずつ増える花咲くんとの思い出を、初めて出会った日から順を追って反すうするのが至福の時だ。脳内リピート再生回数が一番多い最初の記憶など、時間の経過とともに記憶が薄らぐどころか逆に鮮明になってきているほどだ。
そして、現状の思い出の中で胸キュン度No.1である先週の邂逅を夢見心地で脳内に映写する。
花咲くんの一挙手一投足をスローモーションで思い描く。あのときのエレベーター内の気温、匂い、感情すべてを真空パックで永久に冷凍保存して忘れたくない。
初めて会ったとき、この人に出会うために私は今まで恋というものを知らなかったんだと確信した。
モノクロの風景の中でひとり色彩をまとっているような花咲くんを見つけた瞬間、この人が運命の人だとわかってしまったのだ。
それからは、どこにいても何をしていても花咲くんが頭から離れない日々が始まった。目が勝手に花咲くんを探してしまう。楽しいとき、美味しいものを食べたとき、花咲くんと一緒だったらなと思う。服を選ぶとき、花咲くんにかわいいと思ってもらいたいと考えている。思考の終着点がいつも花咲くんで、心が忙しいのだ。
花咲くんは身長173cmくらい。決して長身ではないが、彫りの深い端正な目鼻立ちと、日に焼けた肌、服の上からでもわかる厚い胸のせいで、男性的なたくましさに溢れている。
見事な筋肉は、高校までアメフト部に所属していたから。これは学校の同級生で、大岡ゼミでも同じクラスの深沢さん情報。深沢さんのお兄さんが花咲くんと同じS高で同期だったと知り、情報収集のため私が彼女に近付いたのだ。
最難関といわれる国立大学医学部に現役で合格する頭脳明晰さは語るに及ばず、あれほどの容姿端麗ぶり、極め付けはお父様が競輪の選手で、久我山のたいそう大きなお屋敷にお住まいらしい。(これも深沢さん情報)
眉目秀麗、良家のご子息と、なんでも持っているまさに王子様。自分の審美眼にあきれるやら感心するやら……。雲の上の人を好きになってしまったとしても、気持ちは止められない。
そればかりか私は、今すぐは難しくても、いつか花咲くんのお嫁さんになるのは自分なんじゃないかと、密かに妄想を繰り広げている。だって、うちの両親も高校の頃から付き合って結婚した。運命の人に出会うのに、早すぎることなんてないと思う。
大通り沿いにある大岡ゼミのエントランスにはすぐに入らず、手前の一方通行の道を曲がり、ビルの裏手に回った。
大岡ゼミの専用駐車場に、花咲くんの車が止まっているのを確かめるのが日課なのだ。
今日もいつもと同じ場所に、オレンジのXVが駐車されている。よし! 思わずガッツポーズをして、もうすぐ花咲くんに会える期待感にはやる鼓動を感じる。
梅雨のシーズンだというのに、車は綺麗に手入れされている。きっと花咲くんが大事に磨いているのだろう。ルームミラーにはいつもと同じようにドリームキャッチャーが静かに垂れ下がっている。私の願いをどうか叶えてください、と願掛けをした。
受付にいつものように入って行くと、珍しく花咲くんが私以外の生徒の対応をしていた。
あの制服は、M高だ。進学校だが自由な校風が売りで、派手な生徒が多い。案の定M子も(勝手にそう呼ぶ)、下着が見えそうなくらい短いスカートから惜しげもなく生足をさらし、つけまつ毛までして完全武装だ。
きつそうなシャツの胸元を第2ボタンまで開け、カウンターにしなだれかかるようにして花咲くんに質問していた。
腰まである長い栗色の髪の毛はキューティクルが生き生きしていて、M子が頭を傾けるたびに天使の輪っかが艶やかに形を変える。
新参者がなれなれしい……。おもしろくないが、花咲くんの追っかけ歴ベテランを誇る私だ。歯牙にもかけぬ余裕を装い、窓際のカウンターのスツールをくるくる回しながらその様子を盗み見ていた。
ふと、テキストから視線を上げた花咲くんと目が合う。花咲くんは、口を「お」の形にしたかと思うと、次の瞬間目を細めて微笑んだ。
ア・イ・コ・ン・タ・ク・ト、ってやつじゃなーーーーーーい!!!!!!
耳まで真っ赤になっていくのが自分でもわかる。ここが自分の部屋なら床に転げ回って狂喜乱舞しているところだ。
なに、この通じ合ってる感じ!? もしかして、この恋、もしかするのかな……!?
小さなか自信が積み重なって、うぬぼれにも似た錯覚に襲われる。いやいや、まさか。
1人ノリツッコミをしながら妄想に忙しくしていると、深沢さんが音もなく視界に入ってきた。
「わぁぁ!!! 深沢さん、びっくりしたー……」
驚いてわたわたしている私を完全に無視して、深沢さんは隣のスツールによじ登るようにして座ると、くるりと体ごと私に向いて言った。
「悪い話あるんだけど、聞く?」
私の心臓は大きくドクンと飛び跳ね、その振動はほとんど痛かった
(後編につづく。2018年8月7日21時頃、公開予定!)
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