▲家庭用ラジオ大手のフィルコ社が1935年型フォードV8のために開発した初期の純正ラジオ。ダッシュ中央のコントローラーと天井スピーカーを含む3ピース構成で、本体は高性能な真空管6球・3連バリコン式。4種類の音質設定や低音補正(現代のラウドネスコントロールに近い)も備わっていた ▲家庭用ラジオ大手のフィルコ社が1935年型フォードV8のために開発した初期の純正ラジオ。ダッシュ中央のコントローラーと天井スピーカーを含む3ピース構成で、本体は高性能な真空管6球・3連バリコン式。4種類の音質設定や低音補正(現代のラウドネスコントロールに近い)も備わっていた

「カーステの父」と呼べる人物は果たして誰だったのか?

米国特許第1626464号。

ニューヨークの発明家でラジオ商も営んでいたウィリアム・ハイナという人物が1926年9月16日に出願し、1927年4月26日に米国政府から承認された「PORTABLE RADIO APPARATUS」(可搬型無線装置)と題されたこの特許は、カーラジオに関する最古の公的記録と考えられているものです。

「ガスエンジン自動車」の特許をカール・ベンツが手にした1886年1月29日を自動車の誕生日だとするなら、この日はまさしくカーステの誕生日。

なのに一世紀後の今日、そのことを覚えている人はおそらく誰もいません。

カール・ベンツが自動車の父として歴史に名を遺せたのは、その後の事業が大きな成功を収め、同じ業種でいまに至る繁栄を続けているからこそ。

ニューヨークの発明家は、自身の素晴らしいアイデアを商業的な成功に結びつけることができなかった、ということです。

では、「カーステの父」と呼べる人物は果たして誰だったのか。

カーラジオの最初の特許が下りたのとちょうど同じ頃、場所は米国イリノイ州。

独学で無線を学んだ2人の若いエンジニア、ハワード・ウェブリングと、友人のウィリアム・リアが物語の主人公として登場します。

彼らはある日、いつものようにガールフレンドを誘ってドライブに出かけます。

T型フォードの成功によってモータリゼーションが急速に進展したアメリカでは、すでに自動車が若者の日常にあったのです。

ミシシッピ川を望む高台で、沈む夕日を眺めながらガールフレンドが呟いた何気ない一言を、彼らは聞き逃がしませんでした。

「車の中で音楽が聴けたら素敵でしょうね!」

2人のエンジニアはすぐに意気投合し、まだ世の中にないカーラジオづくりに没頭しました。(実はこのストーリー、少々出来すぎの感なきにしもあらずで、どこまでが真実でどこから脚色なのか、いまとなっては確かめる術もないのですが、この種の情熱が技術革新の原動力となるのは歴史的に見ても希なことではないでしょう)

彼らが最も腐心したのは操作性とノイズ対策

巨大なラジオ本体から操作ダイヤルの部分を分離してステアリングポストに取り付けられる構造とし、さらに車が発する電気的ノイズによって受信が妨げられないよう輻射対策を徹底させるなど、家庭用ラジオをベースに車載機としての独自の改良を重ねていったのです。

こうして出来上がったカーラジオに最初に目をつけたのは、シカゴでエリミネーター(高価な電池が必要だった初期の電池式ラジオを電灯線で使うためのACアダプター)を製造販売していたガルビン兄弟でした。

電灯線式ラジオの普及と世界恐慌でエリミネーターの販売が落ち込んでいたガルビン兄弟にとって、カーラジオは事業の存続を託せる希望でした。

兄弟はすぐさま2人に共同事業を申し入れ、車載専用に設計された史上初のカーラジオ「5T71」型を1930年に発売します。

自動車の「Motor」と、音を意味する「Ola」。

ふたつの言葉を組み合わせて「Motorola」(モトローラ)の愛称がつけられたこの製品は自動車高級化のトレンドに乗って次第に注目を集めるようになり、他社からも同種の製品が相次いで登場します。

1935年には家庭用ラジオの大手メーカー、フィルコ社が専用設計の純正カーラジオをフォード車向けに納入するなど、やがて時代を象徴するムーブメントへと成長していったのです。

車載機器が主力商品へと成長したガルビン兄弟の会社は1947年に社名をモトローラに改め、携帯電話の発明などで誰もが知る通信機器のトップメーカーへと成長。

後にハワード・ウェブリングはモトローラの社長となり、1989年に米国自動車殿堂入りを果たしました。

一方のウィリアム・リアは航空管制など様々な分野でいくつもの発明を行った後、世界初のビジネスジェット機で知られるリアジェット社を興し、そこで再びカーステレオに関する重要な仕事を遺していくことになります。

text/内藤 毅
Illustration/平沼久幸