ランボルギーニ ウラカン テクニカ▲2022年4月12日に世界初公開されたランボルギーニ ウラカン テクニカ。そのわずか10日後の4月22日には、アジアプレミアとして日本でもお披露目された。このことからも、ランボルギーニが日本市場をどれだけ重要視しているかがうかがえる

車好きであれば、スーパーカーブームという言葉や、かつてそんな現象が日本で起きていたことを知っている人は多いだろう。では起きた理由は? そして世界はそれをどう見ている? それを突きつめて考えていくと、日本がいかに変わったマーケットであったのかが、浮き彫りになってくる。
 

世界から見た不思議の国、スーパーカーが売れる日本

日本がスーパーカー・ワールドにおいて重要な位置にあることは間違いない。例えば、フェラーリ。昨年の日本における販売台数は1237台を記録した。あまりの爆買い模様に、モンテゼーモロ氏(フェラーリ会長)が「急激に販売数量を増やすのはいかがなものか?(欲しがるからって、誰にでも売るワケじゃないぞ!)」という驚きのコメントを公開した。あの中国ですら899台である。

これだけ景気低迷が深刻化しているにも関わらず立派なものだ。また、ランボルギーニのニューモデルとなるウラカン テクニカもアジア地区のお披露目は日本が最初であった。各スーパーカーメーカーは、日本のマーケットを戦略的にも重視し、大きなプライオリティを置いているのだ。

日本は小さな島国であるにも関わらず、かなりの販売台数が見込めるマーケットとみなされているが、ただ台数だけで評価されているわけではない。ご存じの人も多いと思うが、現在はSUVブーム真っ只中で、ポルシェをはじめ、ランボルギーニやマセラティなど多くのブランドでは、SUVの販売比率が極端に高くなっている。しかし、日本はそんな中でも、ポルシェで言えば911、ランボルギーニならアヴェンタドールなど、ブランドの顔ともいうべきモデルが良く売れている。

日本の顧客は、ブランドに対するロイヤリティが高いし、何より車のディテールをよく理解している。メーカーにとっては涙が出るほどうれしいマーケットなのだ。

こんな現状があるため、日本のスーパーカー市場は海外からはずっと謎とされている。

筆者も彼らからよく質問を受ける。80年代終わりのバブル経済で、高額なスーパーカーや世界中の希少なクラシックカーが軒並み日本国内に吸い込まれていったが、それらの車はどんな使われ方をしたのか? 買ったのは誰か? それらの車たちは、バブル崩壊とともにまた海外へ戻っていったのだが、なぜ日本にあった車は程度の良いものが多いのか? そしてそんな紆余曲折を経ながらも、日本はなぜ重要なマーケットとして現在も位置付けられているのか? 確かにそれは不思議そのもの。そう思われても致し方ない。
 

ポルシェ 911ターボ(930型)▲ランボルギーニ カウンタックやフェラーリ BBと並び、スーパーカーブームの中心となった911ターボ(930型)。ポルシェブランドにおいても、日本は911やボクスターなどのスポーツモデルの販売比率が高い、珍しい市場となっている
ランボルギーニ▲ランボルギーニは2021年に、過去最高の販売台数、売上高、利益率を記録した。販売台数は13%、売り上げは19%、営業利益は20.2%がそれぞれ増加。アジア太平洋も14%増と世界全体でお祭り状態になっている。そりゃ日本でやたらとウラカンを見かけるわけだ……

忘れられがちな事実、ブームを支えたのは子供である

そもそも1970年代後半まで、日本のスーパーカー市場は極めて小さかった。フェラーリの日本における存在感アップに大きく寄与したコーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドが、その代理店となったのもそれほど昔のことではなく、1976年のことだ。そして、まさにその頃、日本において不思議なスーパーカーブームがその頂点を迎えようとしていた。

とにかく、このスーパーカーブームのパワーはすごかった。1975年あたりから1979年頃までの間に週刊少年ジャンプに連載された池沢さとしの漫画『サーキットの狼(集英社)』がきっかけとなり、大ブレークしたことは皆さんもご存じであろう。

スーパーカー消しゴムやミニカーなどのアイテムが爆発的に売れ、各地でスーパーカーが展示され、走行シーンを眺めたり、助手席に同乗できたりというイベントが大人気であった。商才ある自動車関係者は、これまでまったく日本では売れていなかったスーパーカーを急遽輸入した。そしてアイドルを発掘した芸能プロダクションのように、イベントのために車を時間単位で貸し出しさせて大儲けをしたのだ。

一方で、その当時はまさに自動車業界にとっては悪夢の時代であった。排気ガス規制や各種安全規制の施行が実施され、極めつけにオイルショックが襲った。モデナのスーパーカー業界は壊滅状態であったのだ。そんな時期に、今まで全く存在感のなかった日本からいきなり注文が入り出したわけで、当地ではこの急な展開にどう対応してよいものか、大いに困惑したと、セールスマネージャーたちは証言している。

メーカーやブローカーたちは、ここぞとばかりに日本へスーパーカーを売り込んだわけだが、程なくしてこのブームは消滅した。それとともにステージで輝いていたスーパーカーというアイドルたちは見向きもされなくなり、捨て値で販売された。そもそもこれらスーパーカー自体、注目したのは子供たちだった。だから日本でそれを手に入れようとする顧客層は極めて少なかった。街中を走るには乗り心地も悪いし、ステアリングも重い。エンジンはすぐカブるし、そもそもエンジンをかけるのですら一仕事だったりした。当時、多くの顧客が欲しがったのはスーパーカーよりも、どちらかといえばアメ車であったのだ。
 

フェラーリ 365GT4/BB▲スーパーカーといえばこちら、フェラーリ 365GT4/BB。ランボルギーニ カウンタックLP400との「最高速合戦」は、日本の「子供たち」を熱狂させた。その熱は数十年後に別のカタチで再燃することとなる

バブル期に世界を脅かせた日本マーケット

しかし、そのスーパーカーという存在は、間違いなく多感な子供時代に彼らの心に刷り込まれていた。ヨーロッパにも北米にもスーパーカーマニアの子供たちはもちろん存在した。ベッドの天井にプレイボーイ誌のピンナップガールたちと一緒に、カウンタックやデイトナのポスターを貼り付けて憧れたのだ。

しかし、日本のスーパーカーブームのようにカウンタックのホイールベースの長さまで暗記する勉強家は彼らのごく一部であったし、誰もがスーパーカーに関心を持ったわけではなかった。特にヨーロッパではいくら趣味のものであろうと、自分の生活のレベルの中に釣り合うかどうかを考えるのがスマートと当時は考えられていた。その車が経済的に入手できたとしても、その車の格に自分が合うかどうかを冷静に考えるところがあった。ところが、日本のスーパーカーブームによって、スペックからスーパーカーを刷り込まれた元子供たちにとってそんなことは関係ない。

1980年代後半から90年代初頭にかけては、日本の経済活動を狂わせたバブル景気の時代となった。強い経済力の後押しもあり、20代の青年が、何十回ものローンを使い、収入のすべてを車に投入し、スーパーカーを手に入れようとした者も少なからず存在した。それは、日本におけるもうひとつのスーパーカーブームでもあった。

バブル景気スーパーカーブームは、実際の購買力を持った「オトナ」のブームであったからその狂乱ぶりもすさまじかった。この第2次スーパーカーブームも、第1次ブームの洗礼を受けた世代という仕込みがあったために起こりえた日本独自のブームだった。つくづく日本は変な国だと思われているはずである。突然、スーパーカーを大挙して買いに来たかと思えば、急に彼らは姿を消し、またしばらくすると、以前にも増して物すごい勢いで再び買い漁ったのだから。さらに、そのDNAは現在にも受け継がれ、多くのスーパーカーが売れている。海外の関係者が理解に苦しむのも、もっともなのである。
 

フェラーリ F40▲バブル期に日本を沸かせたのはやっぱりフェラーリ勢。有名人やスポーツ選手がフェラーリを買い求め、プレミア価格に。億を超える個体も珍しくなかった。代表的な存在はテスタロッサ、そして写真のF40などとなる
文/越湖信一、写真/岡村昌宏、Ferrari NV、Lamborghini SpA、Porsche AG
越湖信一

自動車ジャーナリスト

越湖信一

新型コロナがまん延する前は、年間の大半をイタリアで過ごしていた自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。