日本初のアスファルト舗装路はどこ? 諸説あるので実際に行って疑問を解決してきた
カテゴリー: カーライフ
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2015/03/13
長崎VS秋葉原、日本初はどっちだ!
昨年、編集Aくんの親孝行のために、彼の実家にある駐車場のアスファルトをDIYで修復しました。この出来事以降、アスファルトに興味が出てきた……といえば、ちょっと言いすぎですが、気になるあいつ的存在となっています。そんな状態で訪れたグラバー園で、なんと「日本初のアスファルト道路」を発見! これは食い付くしかないでしょう。
実際に目にしたアスファルト道路は、道路と呼ぶにはあまりにもな“欠片”でした。以前は、幅1.2m、長さ30mほどに敷き詰められて小道を形成していたようです。「グラバーの息子が作ったといわれるアスファルト道路」との説明がありますが、一説にはグラバー邸建設の頃に散歩道として作られたとのこと。グラバー邸の建築は1863年。実に150年以上経過しています。ちなみに、アスファルト舗装が考案されたのは1800年代半ばのスイスで、1870年頃ロンドンやアメリカで本格的な工事が開始されました。そう考えると、かなり早い段階で敷設されたと言えます。
しかし、ここで「日本初のアスファルト舗装は東京の秋葉原だった」といった情報をGet。いったい、どっちが真実なの? ということで、早速現場に行ってみました。長崎から東京に戻り、足を運んだのは秋葉原にある「昌平橋」。古くから神田川に架かっていた昌平橋は何度も場所を移して掛け替えられ、1878年に鉄橋化。この際、日本で初めてアスファルト舗装が施されたというのです。その後、また架け替えが行われ、日本初のアスファルトは残念ながら残っていませんでした。
日本初論争の決着は、アスファルトの素材がポイント
年代だけみるとグラバー園のアスファルトの方が15年も先です。なぜ2つの「日本初」があるのでしょうか。そこには、アスファルトの原料が関係していました。
アスファルトは大きく分けると「石油アスファルト」と「天然アスファルト」に分けることができます。「石油アスファルト」は、原油の分留精製によって最後に残った油が原料。一方、「天然アスファルト」は、原油が地表近くで風雨に晒されて酸化。揮発成分を失って重質部分が残ったものといわれています。
記録によると、「昌平橋」で使用されたのは秋田産の土瀝青(どれきせい)。土瀝青とは「天然アスファルト」のこと。一方、グラバー園のアスファルトの成分は、長崎県舗装協会の技術員の調査報告では石炭から発生するコールタールではないかと分析されています。アスファルトとコールタールは厳密には成分が異なることから、日本アスファルト協会のサイトなどでは、日本初のアスファルト舗装は「昌平橋」と紹介しているのです。
しかし、グラバー園のアスファルト舗装は、幕末から明治にかけて日本で活躍した外国商人が手に入りやすかった材料で再現した立派な歴史的な遺産。その価値が下がるものではありません。
日本最古級のアスファルトをこの足で踏みしめる
これにて、一件落着。と、言いたいところですが、アスファルトの初めてを巡っている途中、現存する日本最古級の車道用アスファルト舗装を発見しました。せっかくなので、その地を踏みしめて終了しようと思います。場所は、秋葉原から総武線で一本の駅「信濃町駅」から徒歩5分程度。神宮外苑の聖徳記念館絵画館前。
聖徳記念絵画館前通りをふくむ明治神宮外苑の道路舗装は、ワービット工法を採用した日本初のアスファルト舗装で1926年に竣工しています。ワービット工法とは、下層に粗粒度アスファルトコンクリート、上層に富配合のアスファルトモルタルを敷いて、上下層を同時に転圧して仕上げる工法とのこと。絵画館前の道路には、約90年前の舗装が現役で残っています。こちらで使われたアスファルトも秋田県産なのだとか。ちなみにこの道路は、歴史的土木構造物として、土木学会選奨の土木遺産に認定されています。
普段、あまり意識することがないアスファルト。そのお初には意外な歴史が隠されていたのでした。