【スーパーカーにまつわる不思議を考える】1960年代に始まったスーパーカーブランドの熾烈なライバル関係
2024/02/23
スーパーカーという特殊なカテゴリーはビジネスモデルとして非常に面白く、それ故に車好きを喜ばせるエピソードが生まれやすい。しかし、あまりにも価格がスーパーなため、多くの人はそのビジネスのほんの一端しか知ることができない。なぜミウラのような特殊なモデルは生まれたのか? 偉大な名車はその後世界のマーケットにどんな影響を与えたのか。今月はキーパソンとなる人物を中心に考えてみたい。
スーパーカービジネスに影響を与えたGT40とデ・トマソ
「あの頃は皆、ミッドマウントレイアウトに熱中していた。モータースポーツに対する熱狂が世界を支配していたのだから、私とジャンパオロ(ダラーラ)がフォード GT40に強いジェラシーを感じたのは当然のことだと思わないか?」
ランボルギーニ ミウラ誕生の昔話を語ってくれていた、ランボルギーニのエンジニアとして有名な故パオロ・スタンツァーニはそう語った。
そう、これは本連載でも以前書いたが、ミウラという車を生み出した源は、イタリア製V12エンジンとイタリアン カロッツエリアのスタイリングを合体させ、GT40を凌駕する市販スポーツカーを作ろうというアイデアからだったのだ。そして、それが現代につながる「スーパーカー」というムーブメントを生み出したのだ。
1950年代後半のスポーツカーの世界は、すさまじい勢いで物事が進み、モータースポーツにおいてはエンジンのミッドマウント化が大きなトレンドだった。1962年にはルネ・ボネ ジェット、1963年の春には宮廷の反乱によってフェラーリを飛び出したカルロ・キティらがATS 2500GT をジュネーブショーで発表していた。
そして、注目したいのは同年秋のトリノショーにてデ・トマソが初のロードカーとしてヴァレルンガ バルケッタを発表したことだ。
アレッサンドロ・デ・トマソはエンツォ・フェラーリのビジネスをお手本にしていたから、早々にレース活動の資金源となるロードカーを作って富裕顧客に売りたがっていた。ミッドマウントエンジンのスポーツカーは最先端のトレンドであったから、彼はデ・トマソ=ミッドマウントというブランディングの確立に賭けたのだ。続いて翌年にはカロッツエリア フィッソーレの手によって、アメリカ人顧客が好みそうな豊かな曲線のボディをまとったヴァレルンガ(ベルリネッタ=クーペ)を続けざまに発表した。ごく少ない台数しか生産されなかったが、北米へと持ち込むこともできた。そして1968年にはジウジアーロの手によるマングスタを完成させ、北米フォードとのコネクションを作ることに成功した。彼はなかなかアグレッシブに動いたのだ。
興味深いのはデ・トマソが初のロードカーを出展したトリノショーのスタンドだ。なんとデ・トマソ ヴァレルンガ バルケッタのとなりにはLamborghini Ferruccio Automobili Sasという新興メーカーのスタンドが設けられていた。そう、ランボルギーニの自動車事業が世界へ向けて初めてお目見えした瞬間であり、フランコ・スカリオーネの筆による350GTVのモックアップがそこでアンヴェールされていたのだ。
フェルッチョとアレッサンドロ・デ・トマソは同じモデナエリアを拠点としたこともあり深い交流があった。仲が良いのか悪いのかなんとも言えないが、しょっちゅう口ゲンカに明け暮れ、からかい合う間柄だったという。アレッサンドロ・デ・トマソは「何をこんな古めかしい車を作っているんだ。これからの時代はミッドマウントさ」なんていう憎まれ口で350GTVとともに佇むフェルッチョをからかったんではないだろうか。
当初はオーソドックスなグラントゥーリズモの製作を志したフェルッチョであるが、その2年後の1965年のトリノショーではミウラのベースとなるV12横置きミッドマウントシャシーを発表している。フォードGTのお目見えは、その前年の1964年であることから、ダラーラとスタンツァーニらがフェルッチョにミッドマウントエンジンスポーツカーの市場性を説いて、プロジェクトを無理やりスタートさせたという背景が見えてくる。
だからフェルッチョもトリノショーで見たデ・トマソ ヴァレルンガ バルケッタを思い起こし、「あの抜け目ないアレッサンドロ・デ・トマソが夢中になるくらいだから、ミッドマウント旋風に乗っておいて損はない」と考えたのではないかと筆者は想像する。そんなスーパーカー誕生前夜が1963年春であった。
フェラーリが掲げた「打倒ランボルギーニ」の戦略
果たしてその読みは当たって、美しいボディをもった初の大排気量ミッドマウントエンジンロードカー=ミウラは社会現象となり、少々停滞していた初期のランボルギーニに喝を入れるよい刺激となった。同時にそれは彼らをライバルにすら思っていなかったフェラーリを大きく刺激することにもなった。
もちろんフェラーリとてミッドマウント熱に背を向けていたわけではない。フェラーリのエンジニアだけでなくロードカー製作のパートナーであったピニンファリーナもなんとか早くミッドマウントのロードカーを世に出したかった。しかし、フェラーリには頑固なドレーク=エンツォ・フェラーリが君臨し、よく語られるように“前を走る馬(エンジン)”に固執していた。
1966年のパリサロンにてアンヴェールされたのは365P グイダ チェントラーレ、横3座で中央にドライバーが座るユニークなレイアウトのミッドマウントカーであった。スタイリングはその前年にデビューを飾ったディーノ ベルリネッタ スペチアーレ コンセプトカーに多くの類似点があり、同じくアルド・プロヴァローネの筆によるものであった。
このモデルは当初より量産を前提にしたものではなく“スペチアーレ”として特別な顧客の要望に応じて製作する予定あった。事実、フィアットをつかさどるジャンニ・アニエッリやフェラーリの北米インポーターのトップであるルイジ・キネッティらがオーナーとなった。しかしマーケットの反応は予想に反して冷淡であった。フェラーリとしてはミウラのように多くの発注が飛び込んでくるともくろんだにも関わらず、オーダーはこの2人で止まってしまったのだった。
この365Pが発表されたのはミウラの発表から数ヵ月後のことだったが、皆はミウラに熱中し、フェラーリとしては相当に革新的なモデルであったにも関わらず、その陰に隠れてしまったのだ。フェラーリはプライドが傷つけられ、打倒ミウラ、打倒ランボルギーニの御旗のもと、戦略を変更しディーノ206GTを急遽アンヴェールするのは間もなくのことであった。
自動車ジャーナリスト
越湖信一
年間の大半をイタリアで過ごす自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。