ランボルギーニビジネス▲自動車デザイン史の中で傑作と評価する人が多いランボルギーニ ミウラ。美しいロングノーズショートデッキのフォルムは後世の多くのメーカー、カーデザイナーに多大な影響を与えた

スーパーカーという特殊なカテゴリーはビジネスモデルとして非常に面白く、それ故に車好きを喜ばせるエピソードが生まれやすい。しかし、あまりにも価格がスーパーなため、多くの人はそのビジネスのほんの一端しか知ることができない。さらに誰もが知っているスーパーカーであっても詳細が明らかになっていないケースもあるのだ。今回はランボルギーニ ミウラの「誰がデザインしたのか」という疑問について考えてみたい。
 

活発だった自動車ショーが生んだ伝説の車

スーパーカーファンを熱くさせた「ミウラ論争」というものがある(あった)ことを皆様はご存じだろうか? 簡単に言えば、ランボルギーニ ミウラをデザインしたのはジョルジェット・ジウジアーロか、マルチェロ・ガンディーニのどちらかという論争だ。それはミウラが比類無き美しさを持っていたことと、2人のデザイナーが20世紀の自動車デザインに大きな足跡を残した偉人であったからこそ大きな論争となったのだ。

そこでランボルギーニ ミウラの過去にさかのぼってみよう。まず、1965年のトリノショーにてベースとなるローリングシャシーTP400が発表された。その反響は大きく、フェルッチョ・ランボルギーニはこのシャシーにボディを載せてコンセプトモデルを作ることを決心した。当時、ランボルギーニはミラノのトゥーリング社にコーチワークを任せていたため、彼らからもプロポーザルがあったが、開発を任されていたダラーラとスタンツァーニはすでに別のアイデアを温めていたという。

「私たちは1964年のトリノショーに展示されていたアルファ ロメオ カングーロにノックアウトされていました。当時、私たちはイタリア版GT40を作るという熱に浮かれていましたから、こんなデザインが実現できたらいいなと衝撃を受けました。そう、そんな先進的なスタイリングの車がランボルギーニにはふさわしいと。その車に輝いていたのはベルトーネのバッジでした」とスタンツァーニはかつて語ってくれた。

その話は順調に進み、ランボルギーニは正式にベルトーネへと「未来のミウラ」の開発を依頼し、素晴らしいスタイリングのボディが完成した。TP400は晴れてミウラへとトランスフォームされたのだ。
 

ランボルギーニビジネス▲1966年に発表され多くの逸話を残したミウラ。P400、P400S、P400SVと進化していき、トータルで約750台が生産されたといわれている
ランボルギーニビジネス▲当時の資料、関係者の証言は出揃っているが、ミウラが伝説のモデルである以上、車好きは今後も好んでこの議論を続けるであろう

ミウラをデザインしたのは2人の巨匠のうちどちらか!?

論争を複雑にしたのは、この渦中、1965年にジウジアーロがベルトーネから離脱したというタイミングだ。

当時、ベルトーネのかじ取りをしていたのはヌッチオ・ベルトーネであり、彼はジウジアーロの才能を高く買っていたが、あくまでベルトーネのデザイナーは自分であり、ジウジアーロは「名もない職人」というスタンスだった。「あれ? ペンを持ってデザインするのが、デザイナーでは?」と思うかもしれないが、本来デザインという単語は広義なものだ。コンセプトを決定し、ディレクションするということもデザイナーの仕事だ。

それに1960年代には、スタイリストと呼ばれたペンを握る人物の名前が表に出ることは一般的ではなく、カロッツェリア(デザイン工房)であるピニンファリーナやベルトーネがデザインしたと表現されるのが普通のことでもあった。

ジウジアーロはそんな待遇に怒り心頭となり、ベルトーネとはケンカ別れしまったのだ。その時、彼はデスクに多くの作品を残してきた。その中には、これからのトレンドになることを見越して練っていたミッドマウントレイアウトスポーツカーの図面も……。

突然、エースたるデザイナーがいなくなり困ったのはヌッチオだ。しかし、彼は幸運というか、見る目があるというか、タイミング良くガンディーニという若き宝石を見いだした。そして、ヌッチオはそれまでゼロから車を完成させた経験が一度もない若者に社運のかかったミウラのプロジェクトを任せた。考えてみればそれは相当な冒険ではないか。しかし、そのとんでもないミッションをガンディーニは見事に敢行してしまったのだ。

最終的にミウラを仕上げたのがガンディーニであることは間違いない。しかし、長いスタイリングディレクションの経験値を持ち、センスもあるヌッチオは新人たるガンディーニに的確なディレクションをしたはずだ。

そこで大いに役立ったのは、ジウジアーロが残してきたミッドマウントレイアウトを想定した、幾つかのプロポーションのアイデアであったことも否定できない。基本プロポーションのアイデアを作ったのはジウジアーロであるという観点から、ミウラをジウジアーロの「子供」であるという説を唱える者もいるし、ベルトーネのオフィシャルなステートメントであり、スタイリングを最終的に仕上げたという点で、もちろんガンディーニであるという解釈もある。

筆者は当事者の2人から、そしてランボルギーニで開発の采配を握っていたジャンパオロ・ダラーラ、故パオロ・スタンツァーニにも話を伺っている。というワケでこの案件に関しては少々思い入れもあるのだが、どちらか1人の作品という結論を出すよりも、カーデザイン史に残る2人の才能が何かしらの関わりを持って完成したという結末にする方が、よりミウラのスタイリングの魅力が高まるのではないかと考えている。

さて、皆様はいかがお考えであろうか?
 

ランボルギーニビジネス▲ミウラのリアフェンダーには「ベルトーネ」のロゴと社名が入れられている。カロッツェリアが減ったことで、近年はこういったエンブレムを見る機会は少なくなっている
ランボルギーニビジネス▲例えばSVJの生産台数はわずか4台とも7台ともいわれていていまだに謎が多い。そういった面もスーパーカーブランドの特徴であり、魅力でもあるのだ
文=越湖信一、写真=ランボルギーニ ジャパン
越湖信一

自動車ジャーナリスト

越湖信一

年間の大半をイタリアで過ごす自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。