ランボルギーニビジネス▲F1由来の自社製V6エンジンを採用した新型グラントゥーリズモ。490psのモデナ、550psのトロフェオ、そしてシステム合計1200psを発揮するBEVのフォルゴーレをラインナップしている

スーパーカーという特殊なカテゴリーはビジネスモデルとして非常に面白く、それ故に車好きを喜ばせるエピソードが生まれやすい。しかし、同じイタリアの高級車メーカーであるフェラーリやランボルギーニよりも歴史が長いブランドであるのに、マセラティのイメージはなかなか定着しない。今月はそんな不思議の多い、マセラティのビジネスについて解説していく。
 

ライバルとは異なる独自路線を進むマセラティ

2023年を電動化元年とし、初のBEVであるグラントゥーリズモ フォルゴーレを正式発表するマセラティ。これはモデナ地区スーパーカーブランドとして初のこと。来年で110周年を迎えるイタリアの老舗スポーツカーメーカーはとんでもなくアグレッシブだ。

コロナ禍の2020年を「新世紀」として、久々のミッドマウントエンジンスポーツカーであるMC20、そして最後のICE(内燃機関)としてネットゥーノ エンジンをリリースしたマセラティ。これはフェラーリとの共同開発から離れ、久方ぶりの100%自社製エンジンである。このように、ステランティスグループをけん引する唯一のラグジュアリースポーツカーブランドとして、集中的な投資を行っているのだ。ここ数年でトップレンジSUVのレヴァンテ、4ドアサルーンのクアトロポルテもフルモデルチェンジし、迅速に全ラインナップの完全電動化を進めていくという。

フェラーリ、ランボルギーニが1万台ほどの年間販売台数を前提としたビジネスを動かしているのに対して、マセラティは2万5000~5万台ほどと、少し方向性が異なっている。フェラーリやランボルギーニと異なり、競合マーケットであるEセグメントへ1000万円を切る価格帯のギブリを投入しているのも特徴だ。このように、希少性に関するアプローチの仕方が故セルジオ・マルキオンネによる拡大プランが打ち出されて以降、少し異なったものとなってきた。

しかしCEOのダヴィデ・グラッソは、マセラティ新戦略の中で販売台数拡大を一義とする戦略ではなく、よりブランドパワーを高め、希少性を追求する戦略へと切り替えを図った。積極的な電動化、そしてマセラティのDNAたるモータースポーツへの回帰などが、リブランディング戦略として展開されているのだ。モータースポーツにおいては、すでにフォーミュラEに参戦している他、FIAのレギュレーションに適合したMC20のGT4仕様、そしてサーキットユースに限定したMC20 プロジェクト24と矢継ぎ早にコンペティションモデルを発表し、しばらくの間休止していたレース部門であるマセラティコルサも復活させた。

そんな元気の良いマセラティだが、そのブランドの本質はなかなか理解されていない。かつてのスーパーカーブームの頃を思い起こしてほしい。サーキットの狼、そしてスーパーカー消しゴムにおいてもギブリやボーラ、メラクなどマセラティは何か地味な存在ではなかったか? やはり王者はランボルギーニのカウンタックやフェラーリのBBだったはずだ。この地味なマセラティというイメージは、なぜ生まれたのだろうか。
 

ランボルギーニビジネス▲2020年にデビューを果たした自社製3L V6ツインターボエンジンを搭載するスーパーカーのMC20。2022年にはオープンモデルのMC20チェロもデビューを果たしている
ランボルギーニビジネス▲レヴァンテに続くSUVの2モデル目として販売が開始されたグレカーレ。サイズはひとまわり小さくなり、日本では直4ガソリンエンジンのマイルドハイブリッドと、V6エンジン搭載モデルが販売されている
ランボルギーニビジネス▲2030年までにすべてのロードカーの電動化を予定しているマセラティは、2022-2023年のFIAフォーミュラE世界選手権 シーズン9への参加を表明。ブランド初のEVレーシングカー「ティーポ・フォルゴーレ Gen3」で参加する

その1 創始者の性格が地味

マセラティは、1914年にレースカーのコンストラクターとして誕生したメーカーだ。アルフィエーリ・マセラティを筆頭とするマセラティ兄弟による個人資本の小ワークショップながら、レースにおいて世界を相手にとんでもない成績を残した。アルフィエーリは、エンジニアでありドライバーとしても世界トップレベルで、さらにセールスにおいても秀でた、いわば天才であった。そしてその性格はかなり控えめであったといわれている。彼と同世代であるエンツォ・フェラーリが早くから自伝をしたため、自らの神格化にいそしんだのと対照的に、マセラティ兄弟たちはいわゆる地味な”職人”であった。会社組織の拡大にも熱心でなく、第二次世界大戦前夜にはドイツが国を挙げて物量作戦でレースに臨んだため、資本力のないマセラティはお手上げとなってしまったのだ。
 

ランボルギーニビジネス▲レースで抜群の成績を伸ばしながらも、会社組織の拡大には決して熱心ではなかったマセラティ。写真は1958年のモデナ本社工場

その2 モータースポーツへの関与が近年少ない

第二次世界大戦前夜からマセラティはオルシ財閥の庇護の下、再びレース活動に全力を投入することとなり、戦後にはレースカービジネスでかなりの利益を上げることができるようにもなっていた。しかし、1957年がターニングポイントであった。マセラティは主力の工作機械ビジネスにおいてアルゼンチンの政変に起因する巨額の損失を出してしまったのだ。そのため、ファン・マヌエル・ファンジオがF1ワールドチャンピオンシップを獲得したにも関わらず、マセラティはワークスチームを解散するという苦渋の決断をすることになった。この判断が、これまでレースマシンとGTカーの両方で戦っていたマセラティがフェラーリとは違った道を歩むきっかけとなった。それ以降も、革新的なバードケージTipo60系の開発を進め、プライベーターへマシンの販売を行ない、フェラーリ傘下時代にはMC12によってワークスチームの復活があったが、やはり地味な印象は免れなかったのだ。
 

ランボルギーニビジネス▲マセラティのレース史の傑作といわれ、ニュルブルクリンク1000km耐久レースなどで勝利を飾ったTipo60。写真に写るドライバーはこちらも偉人であるスターリング・モス

その3 クアトロポルテという4ドアサルーンの存在

1963年にデビューを飾ったクアトロポルテは、社運を賭けた1台でもあった。マセラティのオーナーであったアドルフォ・オルシは、イタリアの首相や法王、企業のオーナーなどが乗るイタリア製ラグジュアリーサルーンを作るという夢を持っていた。このカテゴリーは当時、英国車とドイツ車によって独占されており、少量生産スポーツカーメーカーが顧客のニーズにあったモデルを作ることはそう簡単ではなかった。多くのブランドの試みが失敗に終わった中、クアトロポルテは望外の成功を収め、マセラティのラインナップの中で重要な位置を代々占めてきた。しかし、この4ドアモデルの存在は希少性を売りとするスーパーカーメーカーにとってはもろ刃の剣であった。マセラティブランドのとがったイメージが実用性を売りとするサルーンの存在によって薄まってしまったのだ。
 

ランボルギーニビジネス▲長きにわたり、ブランドを支えてきた4ドアサルーンのクアトロポルテシリーズ。写真は2004年から販売されたモデルとなる

その4 顧客のニーズに“向き合いすぎた”GTカーであったこと

一例として、ボーラのエピソードを取り上げてみよう。当時、一世を風靡していたのはランボルギーニ ミウラ。マセラティのチーフエンジニアであったジュリオ・アルフィエーリは、ミウラに強い敵対心を持ちながらも、マセラティの顧客に向けてミッドマウントエンジンスポーツカーを作るなら、メンテナンスフリーで、十分なキャビンスペースなど使い勝手のよいGTカーでなければと考えた。デザインを提案したジョルジェット・ジウジアーロは、ブーメランのようなとがったスタイリングを推したが、ストレートアームでロングドライブに適さないそのパッケージングは既存マセラティには適さないと、よりオーソドックスなデザインを選んだ。もしそのとき、マセラティがブーメラン案を選んでいたらどうなったであろうか、と筆者は考えることがある。
 

ランボルギーニビジネス▲1971年から1978年まで販売された、マセラティ初のミッドシップ2シータースポーツであるボーラ。生産終了までに約530台が生産された

ざっと4項目を挙げてみたが、皆さまどう思われるであろうか? これらは必ずしもマイナスなことではなく、このようなDNAがあったからこそ現在に至るマセラティの歴史が存続しているとも考えられる。

機会あらば皆さまもぜひマセラティの109年にわたる歴史をひもといてみてはいかがだろうか。なかなか奥が深いブランドであることは筆者が保証しよう。
 

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文/越湖信一
越湖信一

自動車ジャーナリスト

越湖信一

年間の大半をイタリアで過ごす自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。