ランボルギーニビジネス▲ランボルギーニの象徴でもあるカウンタックことLP400。プロトタイプを経て1974年に発売。世界中の車好きを虜にし、日本でもスーパーカーブームの立役者となった

外から眺めていると優雅に見えるスーパーカービジネス。しかし歴史を振り返ってみれば、ビジネスが失敗に終わったブランドは非常に多く、現在成功を収めているブランドにも激しい浮き沈みの歴史がある。今回は前回に続き、ランボルギーニの波瀾万丈なブランドストーリー「後編」をお届けしたい。
 

カウンタック発売直後は順調そうに見えたが……

ランボルギーニの波瀾万丈な歴史。その後半は、名車カウンタックを発売した直後からとなる。

オイルショックなどが原因で経営が破綻したランボルギーニは裁判所管轄下となり、アレッサンドロ・デ・トマソの私怨からマセラティをクビになったジュリオ・アルフィエーリがマネージメントを代行していた。

彼は、ミウラの原型ともなった横置きV12エンジン(ダラーラがそれを参考にミウラを設計した)を開発するなど、天才的ひらめきをもったエンジニアだった。しかし、ランボルギーニでは何とか会社を存続させるために爪に火をともすような堅実経営を行った。フィアット製造部門の下請け仕事を受注したり、あるときは私財をなげうって社員に給与を用意したという。そんな彼の元で、カウンタックは5Lエンジンへのスープアップが行われ、LM002の開発も進んだ。
 

ランボルギーニビジネス▲カウンタックシリーズのV12エンジンを搭載したオフロードモデル。生産はわずか300台ほどと少なく、その希少性は年々高まっている
ランボルギーニビジネス▲1985年に発売された5000QV(クアトロバルボーレ)。カウンタックシリーズは、このあと最終モデルとして25thアニバーサリーが1988年に登場するが、その後生産終了となった

一気に開発が進んだカウンタックの後継モデル

そんな苦境を耐え忍ぶランボルギーニにも明るいニュースがやってきた。エンスージアストであるフランスのミムラン兄弟が、その経営を引き受けることを決心したのだ。

新マネージメントの元でこれまでの停滞した雰囲気を一掃しようと、ルイジ・マルミローリをチーフエンジニアとして招いた。ルイジはフェラーリをはじめレース界で活躍したエンジニアであり、すぐさま新モデルの開発へと取り組んだ。彼はカウンタックのコンセプトが全く陳腐化しておらず、ランボルギーニの重要なDNAであることを理解し、その現代的解釈としてのニューモデル開発を目指した。カウンタックのホモロゲーション有効期限が切れるのも間近に迫っており、それに代わるニューモデルの販売開始を急ぐことは最重要課題でもあったのだ。

ミムランは熱心な人物ではあったが、資金調達では苦戦した。その影響もあり、主力モデルとして開発が始まった“次期カウンタック”の開発は滞ってしまうのだった。

捨てる神あれば拾う神あり。1987年、突然クライスラーがランボルギーニの筆頭株主となった。当時、クライスラーの再建を果たし、怖い物なしだったリー・アイアコッカの拡大政策のイメージリーダーとしてランボルギーニが選ばれたのだった。

潤沢な資金が投入され、一気に次期カウンタック=ディアブロの開発は進んだ。ちなみに創立25周年にこのディアブロを発表予定であったのだが間に合わず、急きょ代替として発表されたのがカウンタック25thアニバーサリーだった。
 

ランボルギーニビジネス▲フォード、クライスラーで要職についたアイアコッカ(中央)と、のちにディアブロの父と呼ばれるルイジ・マルミローリ(右)
ランボルギーニビジネス▲巨匠マルチェロ・ガンディーニが手掛け、プロトタイプを経て1990年から生産されたディアブロ。カウンタックの後継モデルとして2000年まで生産された

混乱の時代を乗り越えて新世代に

実は、この突然の買収劇にはウラがあった。それまでアイアコッカは、旧知のアレッサンドロ・デ・トマソとの関係を深めていた。デ・トマソは、傘下のマセラティをクライスラーへ売却しようと画策していたのだった。ところが、TC By MASERATIという共同事業の中で両者に亀裂が生まれたことで、アイアコッカはマセラティからランボルギーニへ、突然鞍替えしたのだ。

果たして無事にディアブロは発売にこぎ着けたのだが、今度はリー・アイアコッカが失脚してしまう。

何とも不運なランボルギーニでないか。ブランドとしてようやく存在感を取り戻そうとしていた時期に思わぬ災難に見舞われてしまった。リー・アイアコッカの足跡をいち早く消してしまおうと考えたクライスラーの新マネージメントは、ランボルギーニを二束三文でインドネシアのメガテックへと売却してしまった。

そう、債務事件への関与などでジャカルタの政府から財産を没収されるなど、様々な問題に関わったとされるトミー・スハルトが経営者となったのだ。新規開発への投資は途絶え、ランボルギーニはディアブロだけに頼った自転車操業を再び強いられることとなった。

しばしの混乱の後、アウディ傘下となり年間8000台以上を販売する堅実なメーカーとなったのは皆の知るところだ。

趣味性の高いスーパーカーメーカーは、マーケットの経済的環境に大きく左右される。そんな中で、ランボルギーニは必然的にカウンタックの系譜であるV12エンジン・ミッドマウントのトップレンジマシン一本で苦境を乗り越えてきた。つまり、安売りはしなかったのだ。

この苦しかった時代を乗り越えたからこそ、そのブランド価値に毀損なく、今もランボルギーニは光り輝いているのだ。
 

ランボルギーニビジネス▲カウンタック、ディアブロ、ムルシエラゴと続いたV12フラッグシップの系譜を継承し、2011年に登場したアヴェンタドール。最新世代となるウルティメではV12エンジンの出力は780psにまで高められている

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文/越湖信一
越湖信一

自動車ジャーナリスト

越湖信一

年間の大半をイタリアで過ごす自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。