▲片山氏が常々考えていたのは「ウマとヒトとの関係をどう車に置きかえるか」だったという(日産自動車インタビューより)。フェアレディZは片山氏の考えを具現化したものだったのかもしれない ▲片山氏が常々考えていたのは「ウマとヒトとの関係をどう車に置きかえるか」だったという(日産自動車インタビューより)。フェアレディZは片山氏の考えを具現化したものだったのかもしれない

「Z-Car」の父と呼ばれ、多くのイベントにも出演

2月21日深夜、日産自動車の公式FacebookとTwitterにある記事が投稿された。「米国日産初代社長の片山豊氏(105歳)が亡くなられました」。このニュースは瞬く間に日産ファンに伝わり、「#Mr_K」のハッシュタグには悲しみの声が溢れている。

日本の自動車産業を黎明期から見続けてきた片山氏の偉大なる功績を、追悼の意を込めて振り返る。

1909年(明治42年)、静岡県で生まれた片山氏は第二次世界大戦前の1935年、創業まもない日産自動車に入社する。もともとはエンジニア志望だったが、片山氏は入社後に販売課に配属。その後、総務課に異動となり宣伝を担当することになった。

片山氏は当時、人気絶頂だった松竹少女歌劇の舞台に10台のダットサンを登場させたり、三越百貨店の商品搬送車として日産車を納入するなど、これまでになかった宣伝手法を用いて大きな話題を作った。1958年には日産自動車として初めて国際ラリー「第6回豪州ラリー」にチャレンジ。オーストラリア大陸を一周する1万6000kmの耐久ラリーだが、右も左もわからない状態での参加だったという。

▲当時マーケティングマネージャーだった片山氏は「完走できればいい」と考えていたという。しかし2台のダットサン210型は、富士号がクラス優勝、桜号が4位入賞という結果を残している ▲当時マーケティングマネージャーだった片山氏は「完走できればいい」と考えていたという。しかし2台のダットサン210型は、富士号がクラス優勝、桜号が4位入賞という結果を残している

もうひとつ忘れてならないことがある。当時、自動車メーカーにとって広報・宣伝の仕事は外部の会社に任せるのが当たり前だった。しかし片山氏は社長がユーザーの前に出て製品を披露し、説明することが重要だと考えていた。自動車ショーを開催し各社の社長たちが一堂に集まれればと、1954年に東京の日比谷公園で「全日本自動車ショウ」を開催。参加した会社数は254社、展示車両は267台(うち乗用車は17台)。これが現在も続く東京モーターショーの始まりとなった。

1960年、片山氏は渡米。アメリカでは万が一車にトラブルが起こってもすぐ直せるサービス網を作り上げることに力を注いだ。片山氏の方針には日産社内で反発もあったという。しかし片山氏の情熱が勝り、1965年には米国日産の初代社長に就任。片山氏は日本に向けてアメリカで必要とされる車のイメージを伝え続けた。

そして、1970年(日本では1969年)にダットサン240Z(フェアレディZ)が登場し大ヒットとなる。「Zカーの父」「ミスターK」とも呼ばれ、世界中のZファンから慕われた片山氏。1998年には米国自動車殿堂入りを遂げている。その後も様々なイベントに参加しファンとの交流を続けていた。

▲ロングノーズショートデッキのスタイルで、高性能なのに普通の人でも運転しやすい。片山氏はZ-Carのあるべき姿を開発陣に伝え続けた。その情熱がなければフェアレディZは生まれなかったかもしれない ▲ロングノーズショートデッキのスタイルで、高性能なのに普通の人でも運転しやすい。片山氏はZ-Carのあるべき姿を開発陣に伝え続けた。その情熱がなければフェアレディZは生まれなかったかもしれない
▲1998年には米国自動車殿堂入りを遂げた際の一幕。エンジニア以外が殿堂入りするのは極めて異例だった ▲1998年には米国自動車殿堂入りを遂げた際の一幕。エンジニア以外が殿堂入りするのは極めて異例だった
▲ファンとの交流を大切にしていた片山氏は、「Z-Carの父」と呼ばれ世界中のファンから愛されていた ▲ファンとの交流を大切にしていた片山氏は、「Z-Carの父」と呼ばれ世界中のファンから愛されていた

アメリカやオーストラリアなどへの海外展開、プリンス自動車工業との合併、追浜や栃木などの工場建設など、戦前からの日産自動車の歴史を見続けてきた片山氏。私事で恐縮だが筆者の親戚がプリンス自動車で働いていたため、3年前に片山氏へのインタビューを行った際、そのことを話してみた。すると、片山氏は筆者の親戚のことを覚えていて、当時のことをユーモアを交えながら教えてくださった。

片山氏は車を愛し、車を愛するファンを愛していた。日産自動車が2014年秋に行ったインタビューなどを読むと、104歳(インタビュー時)でステーキが好物で、100歳を過ぎてなお自動車免許の更新をされていたそうだ。その際に撮影された動画でもとても元気なお姿を見せてくれただけに、今回の訃報には驚きを隠せない。きっと天国でも好きな車を存分に楽しまれることだろう。

片山氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。