ランボルギーニ ミウラ▲日本におけるスーパーカーブームで中心的存在だったのがランボルギーニ ミウラ。1966年から1973年まで生産されていたといわれる伝説の車である。デザイン、コンセプト、V12エンジン搭載と当時の常識を大きく覆す内容で世界中に衝撃を与えた

スーパーカーという言葉はいつから使われ、どのモデルが起源になるのだろうか。もちろん諸説あるが、最も多い意見は、やはり、日本でもスーパーカーの象徴として広く知られているランボルギーニの傑作モデルだろう。今回は、その登場背景、そしてスーパーカーの起源として推す理由を解説したい。
 

ブランディングを試行錯誤して生まれた、自動車史に残る傑作モデル

元祖スーパーカーとはどのモデルか? そもそもスーパーカーの定義自体が明確でないから、その答えはなかなか難しい。

前回の当連載で筆者は、スーパーカーを「スポーツカーであるが、レースカーではなく、ラグジュアリーなエクステリアとインテリアを持つ少量生産自動車」と定義している。ここではその独善的な考えに基づいてお話したい。

1966年のジュネーブ・モーターショーでデビューを飾った「ある」モデルは、全世界の注目を集め、購入希望者が殺到した。クラシカルな要素を持ちながらも未来的なテイストを醸し出す優雅なスタイリング、ミッドマウントされた大排気量のV12エンジン、斬新なテイストを魅せるインテリア。そう、ランボルギーニ ミウラである。いろいろな意見があるのは承知のうえで、元祖スーパーカーはミウラ以外にはないと筆者は考えるのだ。

ミウラが登場するまでは、モデナの老舗ライバルメーカーにとって、1963年に発足した新興メーカーのランボルギーニは眼中になかったと言って良い。フェラーリが大排気量スポーツカーの頂点として、絶大なブランドパワーを持って独走していた時代だ。当時、ロードカーである275GTBは優雅なピニンファリーナデザインのボディをまとっており、それは「ロードカーのボディをまとったレースカー」というフェラーリのアイデンティティに基づいたものであった。

また、もう一つの雄であるマセラティもエレガントなGTカーとして確固たる地位を確立していた。当時の主力モデルはミストラルであり、ジウジアーロのデザインによるギブリも登場間近だった。

新興メーカーであるランボルギーニが、このマーケットに食い込むのはたやすいことではなかった。当初、あの有名な「エンツォ・フェラーリとの確執エピソード」をぶち上げたオーナーのフェルッチョ・ランボルギーニは、ランボルギーニのブランドプロモーションのために、あたかもフェラーリがライバルであるかのように振る舞った。

しかし、彼が本当に作りたかったのはマセラティやアストンマーティンのようなGTカーであった。ところが、そのどちらもフェルッチョに言わせると少しスポーティさに欠けていた。つまり華がないと考えたのだ。そんな経緯から生まれたのが350GTであり、それは快適なGTカーでありながらフェラーリに匹敵するパワフルなエンジンを搭載した、いわば両ライバルのいいとこ取りを目指したものであった。

ただ、そう上手くは事が運ばなかった。蓋を開けてみると、売り上げは伸びず、その戦略がなかなか難しいものであったことをフェルッチョも理解した。詰まるところ、どっちつかずの評価しかマーケットから得ることができなかったのだ。長い歴史を持ちブランドとして華があるライバルたちとどう戦うべきか、彼は悩んだ。
 

ランボルギーニ ミウラ▲ミウラのデザインを手がけたのは、当時ベルトーネに在籍していたマルチェロ・ガンディーニ。以前の回でも解説したとおり、当時のスペックは厳密なものではなかったため、妄想ふくらむ最高速度300km/hの数字は自動車ファンの心に刺さった
ランボルギーニ 350GT▲ランボルギーニが1964年から1966年まで生産した、2ドアグランツーリスモの350GT。ランボルギーニ初の量産市販車であり、130台ほどが生産された。後に400GTへと進化を遂げる
フェラーリ 275GTB▲フェラーリが、1964年から1966年まで生産した275GTB。クーペのGTBに加えスパイダーのGTSも用意するなど、顧客の要望に応える様々なバリエーションが存在していた。ボディデザインはピニンファリーナが担当
マセラティ ギブリ▲カーデザイン界の巨匠であるジョルジェット・ジウジアーロがデザインした初代マセラティ ギブリ。生産は1966年から1973年で、クーペの他にオープンボディも用意。ロングノーズ、ショートデッキという美しいプロポーションが与えられていた

ライバルたちの度肝を抜いた、ミウラの革新的なデザインと設計

フェルッチョは、ランボルギーニの開発エンジニアにあえて経験の少ない若者を選んでいた。ジャンパオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァーニである。今までの常識を引きずっていては新しいことはできないことを、彼はトラクターをはじめとするモノ作りの経験から学んでいた。

この二人、特にダラーラは、レース活動に関わることができるという”餌”でフェルッチョがマセラティから引き抜いてきた若者だった。だから、当然レースの世界が一番の関心事であった。当時のレース界において大きな旋風を巻き起こしていたフォード GT40に二人はぞっこんであり、いつかこんな車を作りたいと思っていたという。

車作りの方向性に悩んでいた彼らは、この低く幅広いスタイリッシュなボディを持ったミッドマウント・エンジンのレースカーこそが、ニューモデルのベンチマークとなると考え、フェルッチョもそれを承認した。これがミウラ誕生の舞台裏だ。

モデナのスポーツカーメーカーとして新しい取り組みであったセミモノコックボディを開発し、V12エンジンを横置きで搭載した。このレイアウトを見た当時の誰もが、それをレースマシンと考えたであろう。そこに富裕顧客にアピールすることのできるエレガントなボディを載せるのがミウラのコンセプトであった。

「ベルトーネのスタイリングは独特だった。それまで任せていたカロッツェリア・トゥーリングが経営破綻していたから、ベルトーネとのコラボレーションを何とか実現させたいと考えた。そう、モーターショーで見たアルファロメオ・カングーロのテイストにダラーラも私も打ちのめされていたんだ」と故スタンツァーニは、かつて語っていた。そんな経緯から、マルチェッロ・ガンディーニによる自動車史に残る素晴らしいミウラのスタイリングが誕生した。

ミウラの革新的なメカニズムを見たフェラーリのエンジニアたちも顔色が変わった。レースカーのDNAをブランディングの核とするフェラーリは、ランボルギーニを初めて脅威と感じたのだ。もちろん、マセラティも同様であった。レースカーでもなく、GTカーでもないが、その存在がとんでもなく斬新で、ユニークである。

そんなミウラは、世界中に大きなムーブメントを作った。そして、その顧客層はそれまでスポーツカーにあまり興味のなかった富裕層にも広がった。イタリアでは「ミウラ・カフェ」が誕生し、ファッションショーにもミウラが登場した。まさに世界はスーパーカーの誕生を見たのだった。
 

フォード GT▲北米生まれのスーパースポーツであるフォード GT40。フォードがモータースポーツを戦うために開発し、1965年から1969年まで生産していた。純粋なレーシングモデルであり、市販化のプロジェクトもあったが頓挫した
ランボルギーニ ミウラ▲エンジンをミッドマウントしたGT40がV8ならば、こちらはV12で対抗する、という明確なライバル心があったため、ミウラのコンセプトはすぐに決まったという。P400、P400S、P400SVとアップデートを続けて約750台が生産された
ランボルギーニ ミウラ▲FRレイアウトがメインだった時代に、V12エンジンをミッドに横置きにするという斬新なパッケージで登場したミウラ。デビュー時の最高出力は350ps、進化版であるSVになると最高出力385psにまで高められた

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文/越湖信一、写真/ランボルギーニ、フェラーリ、マセラティ、フォード
越湖信一

自動車ジャーナリスト

越湖信一

新型コロナがまん延する前は、年間の大半をイタリアで過ごしていた自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。