ランボルギーニビジネス▲1963年に創立されたサンタアガタ・ボロニェーゼ(ボローニャ県)にあるランボルギーニ本社

スーパーカーという特殊なカテゴリーはビジネスモデルとして非常に面白く、それ故に車好きを喜ばせるエピソードが生まれやすい。しかし、あまりにも価格がスーパーなため、多くの人はそのビジネスのほんの一端しか知ることができない。電動化が進み、様々な施設や生産方法がめまぐるしく変化する今、スーパーカーブランドの生産拠点はどうなっているのか? ランボルギーニの本社工場を例に現状をのぞいてみたい。
 

時代に合わせて急激な進化を果たしているランボルギーニの生産拠点

先日、筆者はサンタアガタのランボルギーニ本社を訪問した。レヴエルトのための新しいアセンブリーラインを取材することが目的だった。

「レヴエルトはアヴェンタドールと同様に、すべてがここサンタアガタで製造されます。熟練工の手によりハンドメイドでエンジンが組み上げられ、センターモノコックをはじめとするCFRPボディパーツも、使用される場所に応じた製法にて、この敷地内の設備で製造されます」とプロダクト担当のマッテオ・オルテンツィ氏は話してくれた。

ランボルギーニのDNAであるV12エンジンはこれまでと大きく変わらない。自然吸気V12エンジンはすでに完成の域に達しており、長い年月をかけてエモーショナルな魅力を熟成してきたからだ。その究極のエンジンを生かすという判断はブランドとして当然のことであろう。

しかし、ハイブリッドのシステムはすべてが新開発となる。インバーターをはじめとする主要コンポーネントには誇らしげにファイティング・ブルのエンブレムが鎮座しているのだから、エンジンに負けない完成度のものを積まなければならない。

フロントエンドにぎっしりと詰め込まれたインバーターやモーター類はかなりコンパクトで、パズルのように狭いスペースにはめ込まれている。システムを冷却させるためのオイルライン(電装系の冷却は油冷だ)のレイアウトは眺めていても、飽きることがないほど精密。これらのアセンブルも熟練工の手がなければ不可能であろう。

製造ラインには12台のレヴエルトが流れており、これは今後台数を増やしていくとのことだ。このメインアセンブリーライン棟(ウルスは新設の別棟にてアセンブルが行われる)ではウラカンの製造も行われているが、これもまもなくリニューアルされることとなるだろう。
 

ランボルギーニビジネス▲今回はレヴエルトの新しいアセンブリーラインを見学。ランボルギーニのプロダクト・マネージャーであるマッテオ・オルテンツィ氏の案内でじっくりと観察することができた
ランボルギーニビジネス▲60年前、創業時のビルディングがそのまま活用されている生産ライン。これを早々と作ったあたりは、創始者フェルッチョ・ランボルギーニの先見の明といえるだろう

レース参戦という創業者の夢が叶う日も近い

注目すべきは、このアセンブリーライン棟の建物の基本構造はランボルギーニ創業の1963年、つまり今から60年前のモノがそのまま用いられているという点だ。

今もファクトリーツアーの際に、工場入り口に残された古い床素材を指さしながら、ツアーガイドがこう説明してくれるはずだ。

「今いるこの工場はランボルギーニ創業の時代そのままのモノで、フェルッチオ・ランボルギーニの思いが今も継承されているのです」と。

そう、この説明には“スーパーカー・ブランド”として重要な示唆を見いだすことができる。それはランボルギーニというブランドのポリシーにこだわるということだ。

フェルッチオはカーガイであると同時に、企業家として高い能力を備えていた。ランボルギーニという新しい、逆にいえば歴史のないブランドにとって重要なのは「革新的であること」であり、かつ工業製品として優れたものでなければならない、という理念を彼は持っていた。

当時、モデナ地区のライバルであるフェラーリやマセラティは、町工場を無理矢理拡大したようなあまり作業効率のよくないファクトリーで、職人の経験や勘で車が作られていた。それを反面教師として、フェルッチオは、60年後の現在にも通用するような一直線の効率的導線をもった広大な工場を設立したし、ドイツの自動車メーカーですら導入していなかったような計測機器を備え付け、精度の高い車作りを目指した。もちろん当地で名高かったエンジニアたちをひきぬいて万全の布陣で新しい自動車メーカーの門出を迎えた。

イエス・キリストの言葉「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」を実践したフェルッチオであったが、新しい自動車メーカーの設立はそう簡単なことではなかった。

経験値のない新会社にとって最初の350GTがラインオフするまでは苦難の連続であったし、クオリティの維持も、理屈だけでは成り立たないことを彼らは痛感した。フェルッチオは「ランボルギーニはレース活動には関与しない」というポリシーを持っていたとちまたではよく語られるが、実際にそんなことはなかった。彼はレースへの参戦を夢見ていた。しかし事業を始めてみたら、そんなことができるまでにはあと100年くらいはかかる夢物語であると思うほど、試練の日が続いた。

その創業から60年。ついにランボルギーニは名実ともに世界トップレベルのパフォーマンスとクオリティをもったスーパーカーブランドとなった。先だっては新型LMDh車両によってル・マン24時間レースへの参戦も発表された。フェルッチョの夢が実現する時がやってきたのだ。
 

ランボルギーニビジネス▲実業家としての才能も有していたフェルッチョ・ランボルギーニ。レース参戦を果たすことは、彼の野望のひとつだったといわれている
ランボルギーニビジネス▲ランボルギーニ初の市販車である350GT。創立翌年の1964年に販売され、約130台が生産された(台数は諸説あり)
ランボルギーニビジネス▲生産ラインにミウラが並べられている当時の生産ライン。手前に並べられたV12エンジン含め、圧巻の一枚といえる
ランボルギーニビジネス▲アヴェンタドールの後継モデルとして発表され、瞬く間に数年分の日本割り当て台数が完売したレヴエルト。伝統の生産工場からラインオフされる日が待ち遠しい

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文/写真=越湖信一、ランボルギーニ
越湖信一

自動車ジャーナリスト

越湖信一

年間の大半をイタリアで過ごす自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。