ランボルギーニビジネス▲エンツォ・フェラーリ。1898年生まれ、テストドライバーやレーシングドライバーを経て1947年にフェラーリ社を設立。数々の逸話を生み出し、1988年に死去

スーパーカーという特殊なカテゴリーはビジネスモデルとして非常に面白く、それ故に車好きを喜ばせるエピソードが生まれやすい。その象徴ともいえるブランドが、スーパーカーの頂点に君臨するフェラーリである。今回はそのブランディングの核となる創始者エンツォの話をお届けしたい。
 

マーケティングの天才、エンツォの言葉

近年は、スーパーカーの販売が絶好調だ。もちろんブランディングが確立したメーカーに限られる話だが、その筆頭はフェラーリだ。1947年創業という比較的若いメーカーであるにも関わらず、フェラーリには多くの「神話」が存在している。

フェラーリの歴史におけるキーワードは創始者であるエンツォ・フェラーリの神格化だ。「エンツォ・フェラーリはレースに勝つことしか興味がなかった。レース活動の資金を得るために一般の顧客にスポーツカーを販売し、レーシングカーを作った。だからエンツォは顧客に売るスポーツカーにはこだわらず、儲けしか考えなかった。」とか「スポーツカーは欲しがる顧客の数より1台少なく作る。そうすれば、それを買えなかった1人が次はもっと欲しがるし、皆は競争して買う」

こんなエンツォのポリシーというか、ある意味フェラーリを買う顧客をやゆしているようなきわどい格言を聞いたことがある人は多いのではないか?

これらはマーケティングの天才とも言えるエンツォが自ら語った戦略である。そして没後35年経った今も、その戦略は色あせることなく生き続けている。
 

ランボルギーニビジネス▲フェラーリの名前が付けられた最初のモデルとして1947年に生産された125Sに乗るエンツォ

「レースに勝つことしか興味なかった」は本当か

今でも、エンツォが元気に部下を怒鳴りつけながら指揮をとっているように感じるから実に不思議だ。数ヵ月前、フェラーリがSUVマーケットに参入する際も、「4ドアの車はフェラーリではないと考えていた」とエンツォは言っていた、という格言が自然と持ち出され、それによってよりプロサングエのニュースに注目が集まった。エンツォはまるで生きている人間よりも、多くを語っているかのようだ。

そんなエンツォの「言葉」だが、実は必ずしも真実ではない。

「レースに勝つことしか興味が~」という件はどう見てもリアリティがない。エンツォは、かつてモデナ中心部の自宅を出発すると、必ずマラネッロまでの道中にあるカロッツェリア・スカリエッティを訪れていた。そして顧客からの注文によるモデルのデザインに対して文句をつけ、納期を早めるようにプレッシャーをかけ煙たがられていたという。彼はフェラーリと名の付く車に対しては、そのカテゴリー問わずとんでもなくこだわった。

また、元会長であるモンテゼーモロがマラネッロに招かれる前、エンツォの片腕としてフェラーリのゼネラルマネージャーを務めたフサーロは筆者にこう語った。

「エンツォがロードカーに興味を持たないなんていうのは、彼一流のポーズだ。あれほどうるさい人物は他にいなかった。特に彼は『軽量化オタク』だったんだ(笑)。そしてすべての判断を自分で行った。彼の承認なしには何も動かなかったんだ」と。

これらの証言でもわかるように、エンツォはあえて偽悪的に振る舞い、それがトップの富裕層たちから喜ばれることを理解していた。そんな計算がしっかりできる人物であったのだ。

先日亡くなったフェラーリの名エンジニア、マウロ・フォルギエリもエンツォに評価され、同時に厳しい仕打ちを受けた人物である。

「そうです。彼にディスクブレーキの利点や、ミッドマウントエンジン・レイアウトがレースに勝つために必要であることを進言するのに、どれだけアタマを悩ませたか。私が言っても聞くわけがない。だから、彼が聞く耳をもっている限られたドライバーたちに協力してもらったのです」と苦労話を語ってくれた。

しかし、考えてみてほしい。レースに勝つだけならもっと効率的なやり方もあったはずだ。しかしエンツォは絶対にそんな考えを持たなかったし、レースに勝つよりも自らのポリシーを守る方が重要であったのだ。だから、レースに勝つことしか興味がなかったという逸話は、実は正しくないのである。
 

ランボルギーニビジネス▲エンツォと一緒に写るのは若き日のルカ・ディ・モンテゼーモロ(右)と1970年代にフェラーリのF1ドライバーとして活躍したニキ・ラウダ(中)
ランボルギーニビジネス▲エンツォの生前最後のモデルになったのが、1987年に会社設立40周年を記念して発売したF40

激動の時代を耐え抜いたフェラーリ

エンツォに関するエピソードは枚挙に暇がないし、フェラーリの歴史も波瀾万丈だ。カルロ・キティやジオット・ビッザリーニらを主役とする1961年の『宮廷の反逆』、フェラーリ、フォード、フィアットの関係性が演じた『フォードvsフェラーリ』。そして、エンツォ没後もジャンニ・アニエッリ会長との関係が噂されたルカ・ディ・モンテゼーモロ、さらにセルジオ・マルキオンネと、一癖あるカリスマたちがフェラーリの顔となり、世界の注目を集めた。そんな彼らのDNAがフェラーリという個性的な車を生み出し、キング・オブ・スーパーカーという地位を作ったのだろう。

しかし、フェラーリの経営は常に良好であったワケではない。1960年代終わりには自動車事業を取り巻く環境の変化から資金難となり、フィアット傘下となった。それから間もなくして、想定外の出来事、オイルショックにも襲われた。大排気量スポーツカー冬の時代の到来であり、フェラーリはフィアットの下請け仕事を受けて雇用を確保することもあった。

そんな中でもエンツォが自ら作り上げた神話は生きていた。不景気の中でもトップ・オブ・ザ・トップの富裕層はフェラーリを見放すことはなかったのだ。

果たして年間生産台数を世界中均して見ると、モデナ地区のライバルたち、マセラティやランボルギーニたちと違って、ある程度の水準を維持し続けることはできた。時代とともに経営者の顔とその方針が変わっていったブランドとは異なり、フェラーリはエンツォのフィロソフィーと、そこから生まれた我が道を行く姿勢が変わることはなかった。だから古くからのフォロワーは安心してエンツォの亡霊に心酔し続けることができたのだ。
 

ランボルギーニビジネス▲2002年、フェラーリ創業55周年のタイミングで発売した、創始者の名前を付けたスペチーアーレモデルのエンツォ・フェラーリ。生産台数はわずか400台
ランボルギーニビジネス▲フェラーリ初の4ドア4シーターモデルであるプロサングエ。フェラーリはSUVではなく、新しい形のスポーツカーとして発売した

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文/越湖信一、写真/フェラーリ
越湖信一

自動車ジャーナリスト

越湖信一

年間の大半をイタリアで過ごす自動車ジャーナリスト。モデナ、トリノの多くの自動車関係者と深いつながりを持つ。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパンの代表を務め、現在は会長職に。著書に「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング」「Maserati Complete Guide Ⅱ」などがある。