車内恋愛 #01「私のサンタさんは、ロードスターでやってくる」前編
2017/12/24
32回目のクリスマス・イブ
クラクションが2回鳴れば、それは彼が到着したという合図。
ミスチルの古い歌の影響らしいが、そういうことを恥ずかしげもなく大真面目にやるのが恋人である堺さんのチャーミングなところだ。玄関の姿見で、頭のてっぺんからつま先まで素早く眺めてドアの外に滑り出す。
今日のために買ったショートブーツの靴音が、心なしか高い。
エレベーターに乗り込むと、鏡に顔を近づけ、今度は子細にメイクをチェックする。
うちの会社が社運をかけて開発したクリスマスコフレのグロスは、艶やかに光を反射し、なかなか悪くない仕上がりだ。
広告代理店がCMのキャッチコピーに『その艶めきが 運命を変える』と提案してきたときは思わず苦笑したが、まんまと淡い期待を抱いている自分がいる。
今日は、彼と過ごす初めてのクリスマス・イブ。
「神崎まゆ」という名前の苗字が変わることはなく32年が過ぎた。年齢的に、「結婚」という言葉が頭をよぎらないと言えば嘘になる。
仕事がきっかけで知り合った大学准教授の彼とは、付き合ってまだ半年だが、大人の恋愛はスピード勝負だとおせっかいな先輩が言ってたっけ。
ファーにかかる、ゆるやかなカールの毛並みを整えたと同時に1階に着いた。
扉が開くのももどかしく、半ばこじあけるようにしてエントランスを通り抜けてマンションの外に出る。
目の前に現れたのは、マジックアワーに浮かび上がる深紅のスポーツカーだった。その瞬間、どきん、心臓が痛いほど跳ねた。
堺さんはいつもどおり穏やかにニコニコしながら助手席の扉を開ける。「こんにちは」と言って軽く手を挙げながら。
車内はかなり暖かく、内心の興奮も手伝って頬が一瞬で上気した。そうだ、この車はオープンカーゆえエアコンの効きがいいんだった……。
普段思い出すことがなくても、細胞は記憶しているらしい。全身の細胞が活性化して血が巡っていくようだ。記憶の糸はどんどん手繰り寄せられ、みるみる輪郭を帯びていく。
「この車、どうしたんですか?」
聞かなければ不自然な質問だ。でも本当に聞きたいのは、なぜこの車を選んだのか? だった。
「驚いたでしょう? いきなりこんな派手な車で現れて」
堺さんはサプライズがうまくいったと思ったらしく、心底楽しそうに笑う。確かにサプライズは大成功。
堺さんが乗っていたのは、真っ赤なロードスターだった。広島県民なら知らぬものはない、マツダの車だ。
「まゆさんが広島のご出身だからというわけではないんだけど、実は僕はずっと昔からロードスターのファンなんです」
堺さんが紳士らしく柔らかな口調で答える。
――そう、あいつもロードスターが大好きだった。
この車を見れば、いやが応でも思い出す顔がある。もうずいぶん昔のことだと思っていたのに、一度記憶再生ボタンが入ると、左横顔がはっきりと浮かび上がった。記憶の中のあいつはいつも運転している。だから横顔。
それとともに、車内の温度、シフトレバーを握る指、オープンカーの向かい風、あいつのお気に入りの香水、よく聴いた曲……次々と思い出される。唯一思い出せないのは、好きだった気持ち――。
雄大は、大のロードスター党だった。初めはお兄さんのお下がりのロードスター。そして私が最後に雄大に会ったのは、彼にとって3台目のロードスターの中だった。
ラジオからはクリスマスソングが次々と流れてくる。
しかし、クリスマスのヒット曲というのは定番から更新されていないらしい。どれも青春時代に聞いていたものばかりだ。
ユーミン、山下達郎、マライア・キャリー、桑田佳祐……。
もっといえば、私の親世代にとっても思い出深い曲ではないだろうか。
クリスマスとは、あらゆる人にとって過去の自分と対峙する日なのかもしれない。
音楽というのは不思議なもので、その曲をどんなシチュエーションで誰と聴いていたかを深く刻印するらしい。そのどれもに雄大の影がちらついた。
まだ17時前だというのに、あたりはすっかり暗い。しかし、今日ばかりは夜が主役だ。
街路樹を彩るイルミネーション、レストランやデパートの温かな明かりが、今や出番とばかりにさんぜんときらめく。
車高の低い車で夜の街をすり抜けると、まばゆい景色は万華鏡のように煌めきの顔つきを次々に変えていく。
今日は堺さんが予約してくれた横浜のレストランにいくのだ。
今ではすっかり見慣れた都心の景色がどんどん遠ざかる。ふいに故郷の街を思う。生まれて18年間も過ごし、初めての恋人と幾度となくドライブした街なのに、その風景はもはやおぼろげだ。
ずいぶん遠くまで来ちゃったな―――。
思わず感傷的になる。
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高校を卒業したら、私は東京の大学に進学することが決まっていた。地元が大好きな雄大が決して広島を離れないことはわかっていたのに。
それでも私は出て行くことを選んだ。恋人を残していく寂しさよりも、まだ見ぬ大都会への憧れは強かった。3月が誕生日の雄大は、免許を取ったその足で私の家まで迎えに来た。
「助手席に乗せるの、教習所の先生以外でおまえが初めてじゃ」
お古のロードスターで現れた雄大の照れつつも誇らしそうな顔が、いまだに忘れられない。
まだ花冷えの季節にも関わらず、せっかくオープンカーなのだからとソフトトップを開けようとしたがなかなかうまくできず、2人でゲラゲラ笑った。
やっと取り払えた屋根の向こう側に広がる星空は広く、頬に当たる風の冷たさも感じないほど、私たちは万能感に溢れていた。
高校を卒業してたった数日しか経っていないのに、雄大は免許と自分の車を手に入れ、私はピアスを開けて生まれて初めて髪を染めた。この数日で、高校生だった自分たちとは決定的に違う誰かになっていく気がした。
圧倒的な自由を目の前にした高揚感と、自分の足で歩き出す未来への不安。ないまぜになった興奮と心もとなさをお互いに共有する暇もなく、時間に押し流されるようにして私たちは離れ離れになった。
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運転はその人の人格を現すとは私の持論だが、堺さんの運転はシフトチェンジもなめらかで、女性の同乗者に優しい。「寒くない?」とさりげなく聞いて、頭をぽんぽんとなでてくれる。
そういう余裕、懐の深さを感じさせる。
でも時に、アクセルを踏み込み車と一体となって駆け抜けたいという衝動を抱いていることも知っている。
でも、そうはしない。理性的だけど内に秘めた男性的な強さがあって、堺さんのそういうところが私は気に入っている。
雄大の運転は、スピードまかせで自分勝手。だけど、楽しかった。
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初心者にとってマニュアル車の運転難易度は高い。さして練習する猶予を与えられぬまま、雄大は上京する私を車で空港まで送ってくれた。ガタガタの走行、何度も起こるエンスト。
とても乗り心地がよいといえたものではなかったが、そのおかげで離れ離れになる感傷は吹っ飛び、空港に着く頃には富士山に登頂したかのような妙な達成感でぐったりしていたものだ。
別れ際、雄大は言った。
「俺とおまえは、絶対に大丈夫じゃけぇ」
姉に借りて2人で何度も聴いたドリカムの『未来予想図Ⅱ』のように、ブレーキランプを5回点滅させて去っていく雄大のキザっぷりには笑えたが、赤いランプが涙でにじんだ。
歌やドラマみたいな歯の浮くようなことを恥ずかしげもなくやってしまうところは、雄大も堺さんも似ているかもしれない。
ほどなく車好きの雄大は車通学で運転技術をめきめき上げ、帰省するごとにその腕は目に見えて上達していった。
もうガタガタとお尻の痛くなることも、ブレーキ時に思わず前につんのめったりすることもなく、スピードに乗って風のように疾走した。
車を走らせたい雄大に、目的もなくあちこち連れまわされたっけ。流行りの歌を歌手になりきってモノマネしては、爆笑させられたものだ。
雄大は歌がうまかった。決して美男子ではないけれど、歌も楽器も絵も器用にこなす雄大は、不思議と女子から人気があった。
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堺さんが今大学で研究しているという“ゲノム”が一体どういうものなのか私は知らない。でも、その私の知らない何かに情熱を注ぎ、没頭している堺さんは色っぽいなぁと思う。
どうやら私は昔から、自分が決して知り得ない領域をもった、才能ある男の人に惹かれてしまう習性があるらしい―――。
(後編につづく。2017年12月25日17時頃、公開予定!)
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